第25回
銚子市
銚子市は関東平野の最東端で太平洋に面しており、沖合には水深200mの大陸棚が広がり、北からの寒流・親潮と南からの暖流・黒潮のぶつかる好漁場が形成されています。そこへ利根川からの栄養豊富な淡水が流れ込み、古くから漁業のまちとして栄えてきました。
銚子漁港は全国屈指の水揚げを誇り、平成23年から平成28年の6年間、水揚量日本一を記録しています。大規模な漁港施設だけでなく、東日本最大の消費地である東京から100km圏域という好条件と、全国トップクラスの冷凍冷蔵能力や流通・加工機能が、この水揚げを支えています。
銚子が現在の港として発展していったきっかけは江戸時代、徳川家康の時代 に着手した利根川の東遷事業により、約60年をかけて江戸湾(現在の東京湾)に流れていた利根川を太平洋へ流れるよう工事を行い、それにより銚子から江戸までが利根川で結ばれたため、その利根川水運を利用して東北各地から江戸へ送られてくる米などの食糧や木材、また、北海道からの海産物等を積んだ船の中継港となり、関東の産物を東北・北海道へ積み出す商港として位置づけられるようになりました。
銚子の特産物である水産物や醤油等も江戸という販路に支えられ、銚子は“江戸の台所”として発展しました。
しかし、時代は流れ明治以降になると外洋を航海する船は大型化していき、大型船が入港できない銚子は中継港としての機能を失っていきます。さらに、鉄道の発達に伴い、利根川を利用した輸送も衰えていくこととなります。
ちょうどそのころ日本の漁業はそれまでの沿岸漁業から動力漁船の発達と漁法の改良によって沖合漁業への転換期にあったことにより、銚子港は沖合漁業の一大拠点となる新たな漁港としての発展の道を進むことになりました。
大正14年になり銚子港で本格的かつ近代的な千葉県営事業銚子漁港修築工事が始まることになりますが、人工の手を加えたのはこれが初めてとなり、それまでは、銚子港の形態はほとんど天然のままで、わずかに沿岸の砂浜の所々に防波用の合掌枠や桟橋が設けられていた程度でした。大正14年に開始された工事は戦後の昭和21年に終了し、その後は国の計画に基づいて漁港の整備が進んでいくこととなります。
昭和35年には特定第三種漁港として指定され、更に昭和38年度から国の「第3次漁港整備計画」により近代漁港としての本格的な整備が開始され、その後、現在の漁港漁場長期整備計画と順調に整備が進みました。
このように全国的にも重要な銚子漁港ではありますが、銚子の川口は日本三大難所の一つに数えられ、昔から海難事故が多発し、「阿波の鳴門か銚子の川口、伊良湖渡合(いらごどあい)が恐ろしや」といわれるほどでした。明治時代以降だけでも、千人以上の死者や行方不明者が出ています。
昭和46年になって、ようやく利根川河口を航行しないですむ新航路、いわゆる「銚子漁港の運河」が完成して、河口における海難事故は解消されることなったのです。
また、魚の卸売場は、市街地から外港に向かって、第1、第2卸売場と受入施設の整備拡充が図られ、昭和52年には第3卸売場のNo.1が、昭和62年にはNo.2がそれぞれ完成し、それに併せて黒生方面の整備も進み、水産加工団地が形成され、水産加工場、冷蔵庫用地として分譲を行うなど出荷から保管、流通面において一層の飛躍が図られ、現在に至ることになりました。
平成26年度に市場食堂、女性部活動拠点施設などを併設した高度衛生管理型の第1卸売場が完成し、今後、第3卸売場を高度衛生管理型卸売場として転換を図る整備計画の策定が進められており、日本全国に安全・安心な水産物を供給する、新たな銚子漁港の誕生が期待されています。
銚子の安全・安心な水産物を広くアピールするために、銚子港に水揚げされる生まぐろの「銚子港近海まぐろフェア」と千葉ブランド水産物認定第1号である銚子つりきんめの「きんめだいまつり」を同時に開催する、銚子水産まつりを毎年開催しています。今年は10月7日(土)に開催し、約3万人の方が来場し、銚子の生まぐろを使用した鉄火丼やきんめだいの煮付定食、サンマのつかみ取りのほか水産加工食品等を楽しんでいました。
平成29年10月7日開催の「銚子水産まつり」の様子