特三の漁港から

第26回

塩竈市

塩竈市は、日本三景松島湾の一部千賀の浦周辺に発達し、古今和歌集をはじめ多くの歌に詠まれてきた風光明媚な土地です。また、仙台への荷揚げ港や水産物の一大供給基地として発展してきており、現在でも、水産業を主要産業とする港湾都市です。

塩竈市魚市場全景

塩竈市魚市場全景

昭和35年に特定第三種漁港に指定された塩釜漁港は、宮城県のほぼ中央、日本三景松島湾の一部、千賀の浦周辺に位置し、前面に広がる三陸沖の好漁場により、多くの漁船が水揚げに利用する全国有数の拠点となっています。

塩竈市位置図

塩竈市位置図

塩釜漁港は、古くは奈良時代に多賀城国府の隣接港として栄えたとの記録があります。江戸時代には伊達家の保護もあり、仙台の外港として水産物の水揚げが活発でした。その後、江戸末期から明治初期にわたり一時期衰退しましたが、明治15年に始まった漁港整備や明治20年の鉄道の開通により、水産物取引が活発化し、後の発展のもとになりました。

明治後期には底引き網漁業の発達により、仙台湾でイワシ、カレイ、油鮫など大量の水揚げがあり、他県漁船の出入港も増加しました。

大正時代になると漁船の動力化が進み、沖合漁業が主流となり、メヌケの延縄船が塩竈を根拠地にして操業するなど、港は大いに賑わいを見せました。また、水揚げの増加に伴い焼竹輪などの水産加工品の製造も盛んに行われました。
当時、狭隘な港での作業などが問題となっており、昭和4年に岸壁の一部に屋根を設け塩竈町魚市場が開設されました。また、この魚市場の西側に今日の仲卸市場の前身である小売市場がありましたが、昭和40年の魚市場の移転に伴い、小売市場も仲卸市場と改称して新築移転しました。

昭和初期には年間約4万トンの水揚げがあり、昭和11年には約12万トンと順調に増加していきました。その後、太平洋戦争により燃料や漁船欠乏、漁船員の徴用の影響により水揚げ量は激減し、終戦時の昭和20年は6千4百トンにとどまりました。
戦後、漁船の大型化などにより大量水揚げが続くようになりました。このころサンマが総水揚げ量の半分を占めていました。そして、昭和30年代後半から北洋海域での大型底引き網漁船「北転船」の操業が盛んに行われ、塩竈は北転船の基地として多量の水揚げがあり、昭和45年には18万トンを超えました。
当時の塩竈の主な水揚魚種は、タラ、スケソウタラ、サケ・マスなどであり、この水揚げを背景に水産加工業もこの時期大きく発展しました。このように大量の水揚げがあったことから、従来の魚市場施設は手狭になり、昭和40年に新しい魚市場が建設されました。

その後、昭和50年代前半の200海里漁業専管水域設定の影響を受けて北転船が縮小され、水揚げも減少傾向となりました。現在は、かつての北洋漁業の基地から生鮮マグロの水揚げ基地となりました。特に生鮮メバチマグロ水揚量は日本一(平成28年次実績)を誇り、塩竈市では秋口から初冬にかけて、延縄船により水揚げされる生鮮メバチマグロの中から、より「鮮度」、「色つや」、「脂のり」、「旨味」に優れたものを「三陸塩竈ひがしもの」としてブランド化し、全国へ販路拡大を図っています。

平成23年3月11日に発生した東日本大震災により塩竈市魚市場は甚大な被害を受けましたが、平成25年度から建て替え工事を進め、平成29年10月25日に、ついに新しい「塩竈市魚市場」が完成しました。安全・安心なおいしい魚を提供するだけでなく、市民や観光客が、気軽に足を運べる施設として生まれ変わりました。
塩竈市魚市場は、高度衛生管理型の荷さばき所として、鳥や獣、埃などの侵入を防ぐシャッターを整備し、場内では排気ガスを出さない電動フォークリフトを使用しています。また、水揚げされたマグロが直接、床面に触れないようにシートを敷いて移動させるなど、徹底した衛生管理を行い、魚市場から安全・安心・高品質な水産物を届けます。

塩竈市魚市場南棟2階には、塩竈の水産業や水産加工業について、3つのテーマで、参加体験しながら楽しく学ぶことができる展示室「おさかなミュージアム」が平成30年3月24日にオープンし、多くの市民に親しまれています。