第18回
枕崎市
枕崎の水産業は、今から遡ること約400年前、日本は豊臣・徳川の天下泰平の時代でありました。その頃「鹿篭の浦の漁業」現在の「枕崎の漁業」はカツオ漁を主としておりました。
またその頃、坊津では密貿易が盛んでありましたが、享保8年(西暦1722年)突如として、幕府による一斉手入れ「唐物崩れ」が強行され、徹底した弾圧に遭い、「鹿篭の浜(今の枕崎の浜)」に逃げ込みました。
枕崎に逃げ込んだ密貿易船(当時帆船)は、領主喜入氏によって手厚く保護され、船の所有者にはカツオ漁業の特権が与えられました。これが枕崎のカツオ漁が発展するきっかけとなっています。
カツオ漁業に使用する漁船は、帆船から動力船へ、また漁場はトカラ列島付近から台湾、フィリピン、赤道を南下しミクロネシアやパプアニューギニア等南方海域へと移っていきますが、現在もこの海域がかつお節用原魚となる冷凍鰹の主要漁場となっており、この漁場を発見したのは、坊津の網元に生まれ大阪高等医学校(現在の大阪大学医学部)を卒業し、29歳のとき枕崎で開業した。「原耕」です。
原耕は、医療に専念していましたが、日露戦争や世界恐慌によって日本のカツオ漁がふるわなくなり、漁民たちが苦しくなったため、病院は妻に任せて漁業に専念し、これからの漁船は大型の石油発動船で、漁場は近海でなく南方漁場でなければならないと考え、妻の名前をとった「千代丸」という動力船で南方漁場を発見、さらに1929年にはアンボン島にかつお節製造工場や缶詰工場、製氷工場を整備し、一大南洋漁業基地を設立しますが、マラリアに冒され58歳で亡くなりました。
この原耕の起こした行動こそが、現在の枕崎のカツオ漁業が発展する礎となったと言っても過言ではありません。
こうして、カツオ漁業が発達するにつれ、漁港施設も整備され、現在は高度衛生管理型荷捌所の新設が進められています。
カツオを原料としたかつお節生産量も伸び、平成6年には日本一の生産量と質の高さを誇るまでになりました。さらに平成21年には枕崎鰹節の本枯れ節が日本食品産業センターから「本場の本物」の認定を受けるとともに、平成22年には「枕崎鰹節」が地域団体商標登録され、日本全国に流通されています。
一方、海外に目を向けると、平成25年12月には和食がユネスコの無形文化遺産に登録され、欧米社会において健康志向の流れが進んでいますが、とりわけフランスでは高齢世代の増加、肥満増加などから消費傾向は健康志向を強め、日本食のヘルシーさが改めて注目されブームとなっており、特に寿司の急速な普及が著しいものがあります。
寿司のセットメニューであるみそ汁は、ほとんどかつお節を使った出汁を使用していないのが現状で、かつお節を使った本来の日本食を発信するため、枕崎のかつお節生産者を中心とした有志で組織する「(株)枕崎フランスかつお節」が平成27年度中の操業を目指しフランスにかつお節工場の建設を進めています。
また、カツオを使った生食では、遠洋カツオ一本釣り船が、「ブライン凍結法」により船上で生き締めにしたカツオを「ぶえん鰹」と名付け、高級ブランドとして売り出していますが、それを使用しグルメとして開発した「枕崎かつお船人(ふなど)めし」は、鹿児島県商店街グルメグランプリで2連覇するなど脚光を浴び、県内外から訪れる観光客にも好評で、週末には行列ができるほどの人気を博しております。
このほか、イベントでは毎年8月に枕崎漁港一帯で、市民総出の踊りやみこしの練り歩き、そして三尺玉花火をフィナーレとする「さつま黒潮きばらん海枕崎港まつり」が盛大に開催され、市民はもとより県内外の子供から大人まで楽しんでいます。
全国の皆さん、是非枕崎においでいただき、「まくらざき」を堪能してください。